新渡戸稲造の台湾農業振興策と今日の農政 明治大学名誉教授・青山佾
新渡戸稲造は1862年、盛岡に生まれ、札幌農学校で農業を学んだ。アメリカ留学を経て母校の教授をしながら北海道庁の技師として泥炭地開発に従事した。当時石狩平野の湿地である泥炭地では木の葉など有機物が酸素不足のため分解されずに堆積していて土壌
新渡戸稲造は1862年、盛岡に生まれ、札幌農学校で農業を学んだ。アメリカ留学を経て母校の教授をしながら北海道庁の技師として泥炭地開発に従事した。当時石狩平野の湿地である泥炭地では木の葉など有機物が酸素不足のため分解されずに堆積していて土壌改良が必要だったのである。
日清戦争のあと台湾の民生長官になった後藤新平は、農業振興をはかるための指導者として、研究者でありながら実践に従事する新渡戸に白羽の矢を立てた。新渡戸36歳の時である。
たまたまアメリカで病気療養中であった新渡戸に後藤から丁寧な手紙が届いた。病が癒えたら札幌農学校に戻るつもりだった新渡戸は断ったのだが、後藤からは再三再四手紙が届いた。新渡戸は、次第に気持ちが傾いた。
新渡戸が帰国して神戸に着くと、台湾総督府の役人が迎えにきている。「後藤民政長官が東京にいて、すぐお目にかかりたいと言っています」というので案内に従って東京に行き後藤に会った。
新渡戸は病後なので毎日1時間は昼寝をしなければならない、台湾のような亜熱帯の植民地における農業振興の実例を調べるためにヨーロッパ諸国を回遊して調べてきたいなど条件を出したが後藤はすべて受け入れ、新渡戸は台湾赴任を承諾した。
新渡戸は台湾の気候風土には砂糖の栽培が有利であると考え、ハワイから台湾に合った品種を取り寄せ、農民を指導して栽培させる体制、収穫したサトウキビを精製するための製造業の振興、輸送のための道路、輸出のための港湾建設など後藤と相談しながら農業改良意見書をまとめた。
台湾の砂糖産業はめざましい発展を遂げ、今日の台湾経済の基礎がこの時、築かれた。日本の農政も、この時の新渡戸や後藤の発想のごとく、将来のために思い切った投資を行い、その果実を子孫が受け取ることができる農業振興をはかるべきではないか。
世界の人口爆発によって近い将来、深刻な食料不足が予想される時に、農業者に相続税を重く課して後継者の離農を促すような制度が温存されてはならないと切に思う。食料確保は国策であるべきだ。
◇次回は8月28日付








