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岩塚生産組合に参画 長岡市・平石博②

2026年10月09日
     
78年築のライスセンター。機械は更新したが建物は今も健在
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大規模開発が始まる


 1960年(昭和35)、父が30㌃の水田を借りて稲作を始めた頃は、まだ農地流動化のスピードが遅かった時期です。状況を変えたのは、64年に始まった越路原台地の新田開発でした。


 越路原台地は、旧越路町と小千谷市にまたがる約2

大規模開発が始まる


 1960年(昭和35)、父が30㌃の水田を借りて稲作を始めた頃は、まだ農地流動化のスピードが遅かった時期です。状況を変えたのは、64年に始まった越路原台地の新田開発でした。


 越路原台地は、旧越路町と小千谷市にまたがる約240㌶の丘陵地で、当時はサツマイモや桑畑が広がる畑地でした。収益性の低い台地の畑を水田に転換し、20㌃区画に整備する大規模な農地造成事業でした。


 69年には、国が新田開発抑制に転じたので、新田開発事業の終わり頃になるのでしょうね。新田を借りる形で10㌶規模まで経営を拡大した当時のことは、小学生だった私も記憶しています。ものすごくデカい農家だと思っていましたが、実は全部借地でした(笑)。


 70年に減反が始まりましたが、その頃から父は、田植えが終わると稲刈りまでの間、家を空けることが多くなりました。農業経営者運動に奔走し始めたからです。


 72年に新潟県稲作経営者会議が設立され、その2年後に全国稲作経営者会議も誕生すると、上京する機会も増えていきました。


 当然、母だけで10㌶規模の水田を管理できるわけもなく、黙々と父に従って農作業に追われている母の苦労を見ているのはつらく、私も中学生の頃からトラクターに乗りました。


 山あいの水田の法面の草刈りが間に合わず、母と弟と一緒に草刈り作業に追われたこともありました。



地区で新たな動き


 農業高校、その後、農業大学校に通っていた間も、学校から帰ると農作業に従事する日々が続きました。その間、私たちの暮らす岩塚地区では新たな動きが始まっていました。


 78年度に始まった国の水田利用再編第一期対策で、機械利用組合の設立と共同施設の整備を推進する構造改善事業が降りてきたのです。


 当初、岩塚地区は事業対象ではありませんでした。しかし、採択された県北部の地区が途中で辞退したため、すぐに手を挙げれば、岩塚地区が採択されるという話が舞い込みました。


 集落で岩塚生産組合への参加に応じたのは、父を含めて9人だけでしたが、その9人で岩塚生産組合を立ち上げ、父が理事長に就任しました。私も、農業大学校を卒業してすぐに、同組合のオペレーターとして参画することになりました。



構成 榊田みどり

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