神扇機械化利用組合の設立 幸手市・船川 由孝④
1974年(昭和49)、ライスセンターの完成とともに、神扇機械化利用組合が誕生しました。翌年、育苗ハウスと容量10㌔㍑の地下燃料タンクを埋め込んだ軽油スタンドも敷地内に完成しました。
圃場整備では、当時は珍しい1㌶以上の大区画圃場も登場し
1974年(昭和49)、ライスセンターの完成とともに、神扇機械化利用組合が誕生しました。翌年、育苗ハウスと容量10㌔㍑の地下燃料タンクを埋め込んだ軽油スタンドも敷地内に完成しました。
圃場整備では、当時は珍しい1㌶以上の大区画圃場も登場しました。ただし、導入した当時の〝最新〟の田植機は2条と4条。トラクターは30馬力。トラクターの普及自体がちょうどこの時期でしたから、稲作は酪農より機械化がかなり遅かったと思います。
しかも、土地改良直後の土質のばらつきはひどいものでした。元々は海だった地域で、しかも多くのクリークを埋め立てて農地にしたので、当初はよくトラクターが埋まって立ち往生しました。
土質が安定するまで20年近くかかりましたね。単収も、当時は6~7俵程度しかなかった記憶があります。
父が代表理事になり、1戸1組合員制なので、私は非組合員のオペレーターとして朝と夕方は酪農、日中は他の組合員と一緒に稲作作業を担いました。
以前から、スガノ農機が主催する「土を考える会」に参加して土づくりの技術を学び、稲作技術に関する本も読みあさっていましたが、それが生きましたね。
酪農経営もしていたので牧草の安全性を考えると農薬の多用に抵抗があり、牛ふんを土に戻しての循環型農業をめざしました。
ただ、最初の10年ほどは農地の流動化が進まず、作業受託料金が組合経営の柱でした。しかも、父は受託した農地を他の組合員に優先して譲り、自分は後回し。そのため、わが家の稲作収入はなかなか伸びず、相変わらず酪農収入に頼っていました。
この件ではまだ若かった私は、父と何度もケンカしました。忘れられないですね。JAや行政の支援を受けた事業だったので、市内の転作面積も、かなりの比率で引き受けていました。
今になって振り返ると、父の大きさを改めて感じます。年月を経て、組合員の高齢化とともに農地がわが家に自然に集積してきました。当時は珍しかった敷地内の燃料タンク設置も先見の明があったと思います。
当時、家計も組合経営も苦しかったのは事実ですが、それに耐えて今の経営の土台を作ってくれたのは、まちがいなく父だと思います。
構成 榊田みどり









