構造改善事業、始まる 幸手市・船川 由孝③


神扇地区の構造改善事業は、誰もが困っていた圃場の排水施設の建設が最大の懸案事項でした。
また、江戸時代に掘られた多くのクリークを埋め立てて最低30㌃の区画に整備する圃場整備事業も行われました。
通常は、土地改良事業で自作地面積が減ることが
神扇地区の構造改善事業は、誰もが困っていた圃場の排水施設の建設が最大の懸案事項でした。
また、江戸時代に掘られた多くのクリークを埋め立てて最低30㌃の区画に整備する圃場整備事業も行われました。
通常は、土地改良事業で自作地面積が減ることが多いですが、この地域の場合、クリークが農地になるため、逆に各戸とも30㌃ほど面積が増えることになりました。
当時はまだ農地価格が高かったので、30㌃あれば家が1軒建つくらいの資産になりました。その意味では、機械利用組合の設立に関して、地域合意は取りやすかったとは思います。
その上で、当時では大型の機械導入とライスセンター建設などの設備投資も必要でした。地権者12人程度、農地面積約25㌶での組合設立でしたが、補助金はあるにせよ、地域の期待と同時に多額の負債を背負っての出発だったことになります。
機械利用組合は、今でいう集落営農方式なので、各戸が出資するのが一般的ですが、この地区の場合、組合員出資はゼロで負債はすべて父が請け負いました。機械利用組合の施設の敷地も船川家の所有地です。
戦前は地主で、農協や農業委員会、土地改良区の役員だったことも影響していると思いますが、たぶん父はこの事業に賭けていたのだろうと思います。
ただしそれは、私自身も父と一緒に多額の負債と農業から逃げられなくなることを意味していました。
まあ、私も最初から農業で喰っていくのが目標だったので、それはそれで良かったのですが、おかげで当時、家計は火の車でした。
圃場整備事業の間、父は事業関連の仕事に奔走し夜遅くまで家に帰らず、わが家の生計は母と私が担う酪農の収入が柱になりました。小遣い稼ぎのために、トラックの運転手を兼業でやった時期もあります。食事の用意などの家事は弟たちが担い、家族総出で家を支えました。
後日談ですが、組合設立後も農地集積はなかなか進まず、1992年(平成4)まで、酪農を続けました。
長く酪農をやっていたおかげで、個体管理や、毎月の経費・売り上げの計算などを通じた経営感覚が身につき、それが稲作の大規模経営に転換してからの圃場管理や事業体系に生きたと思います。
構成 榊田みどり








