稲作経営の法人化を模索 長岡市・平石博③
1978年(昭和53)、岩塚生産組合のオペレーターになると同時に、父から「食費とガソリン代は家で出すが、あとは自分で稼げ」と告げられました。実家暮らしで、田植え・稲刈りのオペレーター収入があれば、確かに生活費には困りませんでした。
余談で
1978年(昭和53)、岩塚生産組合のオペレーターになると同時に、父から「食費とガソリン代は家で出すが、あとは自分で稼げ」と告げられました。実家暮らしで、田植え・稲刈りのオペレーター収入があれば、確かに生活費には困りませんでした。
余談ですが、それでも、農閑期の冬季は杜氏を7年間、杜氏をやめた後は、ガソリンスタンドに8年間、35歳まで副業を続けました。
仲間との遊びや飲食費など、自分で自由に使える資金を稼ぐためでもありましたが、最大の理由は、家で父と顔を合わせていたくなかったからです。
高齢になってからは、孫にとって〝優しいじいちゃん〟でしたが、当時の父は、厳しく口うるさく、私は強く反発していました。
今思えば、そんな父に対抗できるだけの心の軸が、まだ私の中に無かったのでしょうね。しかし、この副業経験は、その後の私にとって貴重な財産になりました。
それは改めてお話しすることにして、就農当時に話を戻します。生産組合の作業受託面積は、約30㌶。組合員は9人でしたが、私以外のオペレーターは2人。あとはサラリーマンでした。最新型のトラクターやコンバインがそろっていて、作業自体は以前より楽しかったですね。
とはいえ、最初の3年間は〝奴隷〟(笑)。まだ生産組合のことをよく知らず、指示されるままに作業するだけでしたが、そのうち徐々に、内情がわかってきました。
50㌶規模を想定しての施設整備でしたが、受託面積は30㌶規模からなかなか拡大せず、当然、ライスセンターの利用率も上がらず、苦しい経営が続いていたのです。
その後、転作の作業受託でなんとか利益が出るようになったものの、より根本的な問題がありました。生産組合といっても機械利用組合とほぼ変わらず、オペレーターの共同作業がある春と秋以外は、組織の体をなしていなかったのです。
組合員は各自の水田を優先的に考えていたし、農業簿記も、会社の利益と給与の区別すら曖昧な単式簿記で、会社の財務状態を把握できませんでした。
組合員の中で後継者がいるのはわが家だけ。いずれ私が経営の中心になるのなら、持続的に経営できる会社の仕組みにしようと、新潟大学に進学した弟と一緒に法人化を模索し始めました。
構成 榊田みどり









