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農人伝

稲作と酪農の複合経営 幸手市・船川 由孝②

2026年07月17日
     
竣工記念碑。父・茂孝氏が土地改良区常任理事として構造改善事業をけん引した
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 戦後の農地解放もあり、私が生まれた1951年(昭和26)当時、自作地は約3㌶程度になっていました。それでも当時は大きいほうで、幼少期は農作業に従事する住み込みの方が数人いた記憶があります。


 しかし、高度成長期に入ると東京の労働力需要が急増

 戦後の農地解放もあり、私が生まれた1951年(昭和26)当時、自作地は約3㌶程度になっていました。それでも当時は大きいほうで、幼少期は農作業に従事する住み込みの方が数人いた記憶があります。


 しかし、高度成長期に入ると東京の労働力需要が急増し、労働力不足から、田植えの省力化のため乾田直播が広がりました。


 70年半ばに田植機が登場し、乾田直播は消えましたが、近年、再び注目されていますよね。時代は繰り返すんだなと感じます。


 中学生の頃、乳牛を飼い始めました。まだ2~3頭でしたが、稲作は収入が年1回。酪農は、出荷すれば毎月現金が入ります。


 61年に施行された農業基本法で、酪農・畜産が「選択的拡大」の重点品目になったこともあったんでしょうね。旧幸手町でも小規模酪農が広がり、集落ではうちが一番早かったと思います。


 茨城県の母の実家も酪農をやっていましたが、私の高校時代に廃業し、わが家がその牛を引き取ったため、15頭規模に拡大しました。その頃から、牛の世話は私がほぼ任され、父が主に稲作、私が主に酪農という役割分担になりました。


 高校は地元の農業高校です。酪農を専攻しました。「コメだけでは食えない」との思いがあり、酪農経営を中心に考えていました。


 高校3年の夏休みには、酪農志望の同級生たちと北海道に泊まり込みで研修に行き、卒業時には、JA経済連(当時)の職員と一緒に北海道まで初妊牛の仕入れにも行きました。


 男ばかり4人兄弟の長男で、跡継ぎとして両親と共に家計を支え、弟たちの教育費も稼がなければと必死でした。青春らしい青春はなかった気がします。


 農業高校を卒業し、本格就農した70年に、減反が始まりました。国の第2次構造改善事業が始まったのは、その前年で、この地域でも、排水設備の導入と基盤整備に向けた構造改善事業が始まりました。


 ほぼ全域が海抜10㍍以下の神扇地区の中でも、私たちの地域は海抜6㍍と最も低く、安定した営農には排水施設が必須でした。


 この事業の発起人になったのは、父でした。仕事に奔走して家を空けることが増え、わが家の農業は、残された母と私と弟で担うしかなくなりました。あの頃は本当に大変でしたね。


構成 榊田みどり

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